昭和50年11月08日 朝の御理解



 御理解 第87節
 「腹は借り物というが、借り物ではない。万代の宝じゃ。懐妊の時は、神の氏子がわが胎内におると思うて大切にせよ」

 「腹は万代の宝じゃ」とこう、「懐妊の時は、神の氏子がわがたいないにおると思うて大切にせよ」この妊産婦に対する御理解です。私は御理解というのは、確かに御理解でありましてね。その事だけではない。同じ理の事がたくさんある。例えばこれを万代の宝と言う事は、自分の腹一つで万代までも、いつまでも、末まで助かる事の出来れる。お徳を頂く事の出来れる。それは自分の腹次第だと言う事にもなる。懐妊の時に神の氏子が胎内におると思うて、という時には大きなお徳を受ける。
 大きなおかげを受けるという前提には、必ずそれが宿るのである。おかげの元というのが宿るのである。だからそれを疎かにするからおかげが流産する。流産と云う事になるのです。何年たっても本当のおかげが受けられないのである。そこん所をです例えば「難はみかげ」と仰るのですから。その「難はみかげ」であると頂かせて貰って、それを神様がお徳を下さる為のそれを基にして下さるんだと思うて、それを大事にして行くと言う事は自分の腹一つで、それを大事にして行く事になるのです。
 合楽で言われる、成り行きを大事にさせて貰う、尊ばせて貰う、御事柄として頂くという行き方が、如何に素晴らしい。言うならばお徳の懐妊とでも申しましょうか、そしてそれが必ずそれが良いおかげとなり、お徳となって産みなされて来ると言う事が言えますですね。神様のそういうお徳を下さろうとする働きと思うて、大切にせよと言う事にもなるのです。それをその難儀を早く取り除いて貰いたい。
 取り除いて貰いたいだけではない。それこそ、どこへかこう追いやってしまいたい様な、気持ちではおかげにならん。やっぱりちゃんと、子供が十月十日という日数をしなければ産みなされない様に、そのおかげというものは、チャンと決まっとる。お徳というものは、私共は随分それこそ流産にしてしまっておる様な事が沢山あろうかと思います。私は今日八十七節からそんな事を感じました。
 昨日は総代会で御座いましたから、私も一緒に加わって色々お話しをさせて頂いた中に、先日から二三日前に頂きましたね。私が松の字を木遍に八を書いて、口を書いて「まつ」と皆さんに聞いて頂いたんです。そしたらその後ですよ「親先生あなたはあんなに言いよんなさいましたけれども、松の字は木遍にハを書いてムですよ」と「あらほんなごとそうじゃったな」けど私が確かに御心眼に頂いたのは木遍にハを書いて、口という字であった。そしてそれに仮名付けはしてないけれども。
 仮名付けをした様なタイトルが付いていた。矢張り「まつ」と読ましなさった。だから私は、皆さんに松と思うて、皆さんに聞いて頂いた。その後にあらほんなごと松の字は、ほんに如何に私が無学でもそれ位は知っとる。木遍にハを書いてムこれが松の字である。けれども神様が「まつ」と読ましなさった。結局御理解つけて下さった。然もその木遍の木の字は小さくってハという字も小さくって、下の口だけが大きいというその御心眼であったから、木は小さいと言う事になるでしょう。
 木遍の木気は小さい、そして口は大きいと言う事になります。今のこのその時には今度本部の方で年六月を期して、「御取次成就信心生活運動」のその内容について、大改革というか、革命的な運動が起こっております。それでその事のどうすればその信心生運動が、神様が喜ばれるに相応しい、言うならば一つのスロ-ガンをもってです、二十六年間取り組んで来たけれども、金光教が一つも増えなかったという。
 大きくならなかった。これはどこにかミスがある。欠陥があると言うて内容を検討し合った訳です。それであらゆる人の智恵を借り、あらゆる人の意見を聞いて、その内容を改めて行こうというのが、今度の運動です。先日からその事に付いてのアンケ-トが来とりました。だからその事を神様にお伺いさして頂いたら、まあそんな事を頂いた。木は小さく口は大きい。皆が口は大きな事を言う。立派な先生の様な話しはするけれども、心は小さいもうチョッとどうかあるともう顔色を変える。
 さあうちの信者を取られたと言われたら、もう腹かく信者がもう止めるとするともうくぅっとする。そういう先生の所ではおかげの頂ける筈は絶対ない。まあ是は先生だけの場合じゃない。皆さんだって同じ事。たった是位の事が心配になる。たった是位の事が腹が立って仕方がない。たった是位の事が苛々して仕様がない。もうおかげはそれだけのものなんだ。お取次を頂いて日々お伺いをするから、おかげはまあどうやらこうやら頂きよるけど、それがお徳になるなんて先ずは無いと思わにゃいかん。
 心を大きくする。口は言うなら小さくてもよいから、木は大きくさして貰う。その木につり合うた、口でなければまつの木とは読まないという御理解をした。それをほんなごと、そう言われておると、そげなふうじゃ松の木じゃなかたいと思いよった。所が直方の行本さんじゃったかどなたじゃったか、私の方の妹の名前は、まつ子と言うがやっぱりハに口が書いてある。そういう話しがありよる所へ、事務所で言われたそうです。そこで秋永先生が早速その大字典を引いて見た所が。
 成程木遍にハを書いて口と書いてあるのが、松と読むと書いてあった。しかもその訳が素晴らしい。この木遍にハを書いて口というのはね、神様が降臨まします時に使われる木だと、説明してあった。私もそれを聞かして貰ってから、もう何時もの事ながらもう恐れ入ってしまいました。私の様な無学な者に時には英語の様な事で頂いたり、支那語の様な事で頂くんです。私には解らんです仏教的な事は梵語で頂くです。訳は解らんですけどそれを段々字引を引いたり、色々こげなふな英語で頂いたが。
 どういう意味ですかと言うて聞かして貰うと、成程それが御理解である。それは英語でなからなければ、梵語でなからなければ、支那語でなからなければ通用しない意味あいの事があるんです。言うなら神の英智です神の智恵です。もう唯恐れ入ってしまいました。総代会の時にその話しが出ました。ほんに神様ちゃ恐れ入るなと言う事でした。ありゃやっぱり間違いじゃなかった。矢張り松の字なのです。
 しかもその松の字はです、木遍にハを書いて口と書いた松の字は、神様が天降られる時に、使われる木だと言う事で御座います。だから神様が天降って下さる。神様が我が胎内に宿って下さる。難儀は全てそうです。それを本当に難儀にしてしまう所に、腹が立ったり苛々したりする訳です。それをおかげとして頂いてです、万代までのもの宝になるとまで仰るのですから、胎内に宿ったおかげの元を大事に大事にして、それが産みなされた時に素晴らしいおかげであり、素晴らしい徳である事になるのです。
 昨日日田の綾部さんが一団体参って見えました。あちらの信者さん方を皆同道で、先日から一番下の娘さんですね、が縁につかれました。お許しを頂いて話が段々決りました。決って色々な話し合いがあるたんびに、もう何と言うても腹に据え兼ねる様な、話になって来たんです。本当にまあ以前の私だったらもう、一遍で蹴散らかしてしまいたいごたる、話になって来た訳です。
 所が親先生どう言うふうに言われても、どう言うふうな事があっても、親先生からお許し頂いとる縁談だからと何時も思うて、言わばにこにこして受けられた。それを仲人の田中さんが見ておられてから、まあ娘を持って娘を貰うてもらうと言う為には、親ちゃあげんも辛抱せんならんじゃろうかという位にあったと田中さんが言われます。私はその話をここで聞かせて頂いてです。私でもちょいとどうかの、了見に及ばんと云う事があったんです。けれども親先生のお許し頂いての事だからと言うのである。
 おかげで無事に式が済んで、昨日一昨日が新婚旅行に出られて初めて、だからあちらのお家なんかも見にも行かれなかったんです。所が今度行って初めて神様の働きとはこんなもんだろうかという位、素晴らしいお家だそうです。又ご両親が素晴らしいそうです。そしてあん時腹かかん方が無理と言う様な難問題を言うたりしたりしましたけれども、まあ言うならば「初め穢のう、後美しく」という気持で申しましたら、ようお母さん辛抱して頂きましたと云う事であった。
 如何にお試しじゃったかが分かるでしょう。まあだこれ位の事じゃなかった。綾部さんの話を聞くならです。もう本当に驚くばかり、しかも御信心を頂く様になってです、息子、娘さん三人の縁談がです。もう一人一人御神意のまにまにおかげを頂いて。親としての責任もおかげだったが、皆さんみんなああして去年は和子さん、今年は静子さんと言う風にしてやられたから、本当に淋しうなったろうと、皆さんが成程淋しくないと言えば嘘になるけど、淋しい位の事ではない。
 有り難さがいっぱいですから、ひとつもさびしくありませんと言うて、申しよりますと云う事でした。先日からはもうそれは大体が、良いもの好きの方ですから、今度の紋付きなんかはもうそれこそ、大変な金額のものではあるし、大変な立派なものだったそうですね。それを何と、仕立て屋さんが裁ち違いをした。そりゃもう大変な、たとえば元にしてくれと言えば大変な金が掛る事でしょう。又そういう同じものはないと言う様に良いものだったそうです。
 ところが裁ち損のうた。あんまり仕立て屋さんが緊張したんでしょうね、あんまり素晴らしいので。その時もです、綾部さんの言うておられる事がね、もう是で良いと言う事だろうと、だから向こうでは「べんしょうする」と言うけれども、「そげんまでしなさらんでも良い」と申しましたと言われた。その事に付いては、私が申しました。「それは信心はそれこそどうでも良い事ですよ」と、お取次を頂いて起きた事だから、もうそれで良いかと言う事じゃない。
 そのお店がです、これはお取り替えさして貰いますと言えば、ああそうですか、でも良いし、又損になるごたるならば、又幾らか出してもよいし、と言うてどうもせんでんこのままでもよい。どうでもよいと言う事なんです。腹が大きいと言う事は、お取次を頂くと云う事はそうなんです。御取次を頂いて起きて来たのに、どうしてこんな事が起きて来たじゃろうかと言う事じゃないです。
 もう矢継ぎ早に、この度の結婚式に当たってはです、もう本当に腹に据えかねる様な事があったけれどもです、それを我が胎内に宿ったとして受けとられる訳です。そして神様が下さったんだとして、それを受けておられる訳です。そしていよいよ、蓋を開けてみたところが、もう本当に素晴らしいお家であった。素晴らしい御両親であった。と言う事になったんです。
 しかも考えてみる程にです、御信心を頂く様になって、息子一人それから娘さん達三人をそれぞれにです、本当にそれぞれの所にやられて、親としての責任が全う出来たと云う事をもう大変な喜びとして、御礼のお届けがこれはまあ明くる日でしたかね。昨日一昨日、昨日はその他の事でしたけれども、そういう話がありました。娘を貰うてもらう家位は誰でも見に行きますよね。
 所がもう親先生がお許し下さったんだから。もう家も見に行かんでんよいと言う事で、初めて結婚式が終わって、あちらにやらして頂いたら、それこそ大変なお家、田中さんもびっくりしとられました。そして今度新婚さん方のお部屋が、綺麗に出来ておった事やらも聞かして貰いましたが、あれが途中でどうでしょうか。向こうが向こうならこちらもこっちと、向こうの言い分ばかり聞いとっちゃ出来ん。こっちの言い分もと言うて、そうしておられたら、恐らくはあの時点で崩れたでしょう。
 おかげは受けられんでしょうが、それではね。私は今日は皆さんにね、腹はね借りものじゃない、腹は万代までの宝だと云う事を頂いて頂きたい。皆さんの腹一つでです。おかげにもなりゃ徳にもなる。流産にもなると云う事です。そこで二三日前頂いた御理解をもう一遍です、木は小さくて口は大きいと言う松の字では神様の降臨のしようがありなさらんです。口だけはむごう言う。口だけは大きな事を言うが木は小さい。心は小さい。腹が小さいのですから、おかげが小さい筈です。
 大きなおかげが頂きたいなら、先ず大きな腹を頂かにゃならん。しかもその腹に宿った一切のお徳の元、おかげの元というものを大事に大事にさして頂く事が、御事柄として受けることであり、成り行きを尊ばして頂くという行き方を徹底すると言う所にです、必ずおかげが成就する。必ずお徳が受けられる。成程万代までの宝と言う事が解るでしょう。神様が例えば、木は小さくて口は大きい。
 そういう御理解をです、例えばなら神様が私共に噛んで含める様に分からさせねばおかんという働きがこの御理解です。私が頭で考えた事でない事が解るでしょう。神様の心ですどうぞ心を大きくしてくれと、心を大きくせなければ大きなおかげは頂かれん。腹は万代までの宝。成程宿った物を大切にさせて貰うて、立派にそれを産みなして行くというおかげ。産みなして行くお徳と云う事になれば。
 成程万代までの宝じゃと「懐妊の時は、神の氏子が我が胎内におると思うて」と、ここん所を難儀なものを感じた時には、今こそ良い子が産まれる為の、なら懐妊のおかげを頂いた時と思うて、それを愈々大切にせなければいけない。それをごちゃごちゃ言うたりする所に、お流れになってしまうのです。そういう繰り返しをしておったんでは、何時まで経っても本当のおかげにはなりません。
 そこでです腹を大きくする為には、という稽古が必要になって来るのです。あらゆる事柄あらゆる問題をです、自分のおなかが大きくなる。自分のおなかを綺麗にする為の材料であると頂いて、そりゃここで、一言いうたならばと思う事もありましょう。もうこの事だけは腹に据えかねると云う事も御座いましょう。そういう時に愈々素晴らしい、言うならば懐妊のおかげを頂いた時と思うて。愈々大事にさせて貰う、その暁の事が楽しいのです。いわゆる黙って治める事の素晴らしい事を愈々思います。
 大きなおかげを頂きたい。おかげだけではない、本当にお徳が受けたい。所が肝心かなめの時に流産にしてしまう様な事では、何時までたってもおかげもお流れ、お徳などは尚更と言う事になるのです。今日は八十七節をこれは、勿論妊産婦に対する御理解でしょうけれども、教祖が教えて下さる事は。腹はその様に大切なものだと言う風に理解づけて頂いた訳ですね。腹一つなんだおかげはね。
 自分の腹に据えかねる様な事でも、それを据えさして頂くと言う事がです、懐妊の時にそれを大切にするのと同じ道理なのですね。道理を解いてありますね。おかげも良いおかげを産みなして行かにゃ、そして万代までの宝と言われる様なです。あの世にも持って行かれこの世にも残しておけると言う様なお徳を頂く為に、愈々大きなおなか言うなら、大きな腹を頂きたい。大きな心を頂きたい。その事を鍛える事に焦点を置いたら、信心は良い訳ですよね。
   どうぞ。